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2011年6月 2日 (木)

百人一首・契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

清原元輔(908~990・清少納言の父)の後拾遺集歌であり百人一首でもある「契(ちぎ)りきな互(かたみ)に袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」に登場する「末の松山(すゑのまつやま)」の歌枕(宮城県多賀城市)としての意味は、波は波でも津波(貞観11年・869の貞観地震による)の記憶からの由来であると云う。古代日本・大和朝廷の最北の前線基地であった多賀城は、大伴家持の終焉の地としても名高い。辞書解説は次の通り。

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1)末の松山:陸奥(みちのく)の古地名。岩手県二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町にある浪打峠とも、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近ともいわれる。陸奥(むつ)国、今の宮城県多賀城市付近にあったという山。[歌枕]「君をおきてあだし心を我が持たば浪も越えなむ」〈古今・東歌〉

2)多賀城:宮城県多賀城市に築かれた古代の城柵。奈良時代に陸奥(むつ)国府・按察使(あぜち)・鎮守府が置かれ、東北経営の拠点であった。

3)「古今和歌集全評釈(片桐洋一著・講談社1998発行)」によれば、「君をおきてあだし心を我が持たばすゑの松山浪も越えなむ」の通釈は「あなたをさしおいて、他の人に移すような心を私が持つことがあれば、あの‘すゑの松山’を浪が越えるというような、あり得ないこともありましょうよ」、歌枕「すゑの松山」の語釈は「多賀城市の末松山宝国寺が有名であって、芭蕉が訪ねた末の松山もこゝである。固有名詞とせずに、ずっと向こうの松の茂った山で詠まれたものが、陸奥から伝わって来たゆえに、陸奥の特定の地に付会された可能性もないわけではない。いずれにせよ、海からずいぶん離れていて浪が越すこともあり得ないような所だったから、このような譬喩(ひゆ)がなされたと見るべきであろう」と解説している。

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コメント

定家と元輔の「末の松山」を恨む
 百人一首の清原元輔の歌、
  「契(ちぎ)りきな互(かたみ)に袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」
では、「末の松山を波が越すことはない」と認識しています。

 しかし、本歌の、「君をおきてあだし心を我が持たばすゑの松山浪も越えなむ」
では、「末の松山を波が越すこともある」と認識しています。

 もし、本歌のほうが有名になって日本人の共通認識になっていれば、東京電力も
   「安全をさしおいて、コストダウンに移すような心を私達が持つことがあれば、あの立派な堤防を津浪が越えるというような、あり得ないこともありましょうよ」
と思ったかもしれません。

 しかし、定家が百人一首に選んだばっかりに元輔のリアリティのない認識が一般的になってしまいました。
 定家のばか。

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