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2011年12月31日 (土)

不比等・閑話(その162)

藤原不比等(ふじわらふひと・ふじわらのふひと)、について想いを巡らし、ブログのタイトルを不比等(fuhito)とし、不比等の生きた時代を中心として、古都奈良の観光振興に資すべく、続けてきたこのブログも、一旦、お開きとすることに致しました。shinebarbarbarshine

元々、歴史が好きではありましたが、時代が下った戦国時代とかが、興味の大半でした。あるとき、塩野七生(しおのななみ)女史の「ローマ人の物語」を読み始めて、ローマ帝国の壮大な歴史に触れ、初めてジュリアス・シーザーの天才である所以(ゆえん)を知りました。翻(ひるがえ)って、日本では、それに匹敵する人物がいるのだろうかと、考えを廻(めぐ)らしたところ、梅原猛氏の著書「隠された十字架」に登場した謎の人物「藤原不比等」ならば、日本のジュリアス・シーザーといっても過言ではないのではないかと、藤原不比等の歴史的周辺を、もっと知りたいと思うようになった。残念ながら、藤原不比等はジュリアス・シーザーのように、自身の著作を残しては居ないものの、記紀(古事記・日本書紀)の編纂に深く関与していたことから、その記紀の描き出す古代世界の中に、彼・藤原不比等の人物を准(なぞら)えられはしまいかと、同様に、藤原不比等を調べてきた人々の著書などを読み合わせてきました。けれども、藤原不比等が天才である所以なのか、日本史の中で彼の尻尾(しっぽ)を捉(つか)まえることは、並大抵のことではないと思い知りました。これは、藤原不比等を調べて来られたよそ様も、悉(ことごと)く、同じ想いをされてきたものと、感じ入る次第です。

一番の問題は、余り深く突っ込むと、日本国の国体護持の建国精神に触れることとなり、これまで、歴史学者がこの時代を、敬遠してきたことも一因ではあるのでしょうが。もし、藤原不比等を歴史の中に正確に位置付けるとすれば、これまでの日本の歴史上の人物は全て霞んで仕舞うほどの、迫力があったに違いないと思われる。1300年後の今に至る国の統治機構である官僚組織を、盤石に整備したのであるから、それを天皇制で権威付けたことは、未だに微塵も揺らいでいないのだから。shinebarbarbarshine

藤原不比等は、奈良公園の入り口、興福寺の北円堂に祀られて、今も静かに眠っている。

奈良市・鴻ノ池運動公園の一角に建つ藤原不比等・顕彰碑が唯一、鴻ノ池運動公園を造成した際に、藤原不比等の陵の名残でさえ破壊したらしいことを、認めているかの気がする。まあ、藤原不比等にしても、平城遷都の際、多くの古墳を破壊しているのだから、十分に納得していることであろうけれど。

2011年12月30日 (金)

不比等・ローマ人の物語を完読した感想

藤原不比等(659~720)の生きた時代は、東ローマ帝国が最後の輝きを示して、イタリア半島をゴート族から奪還した西暦553年より、百年あまり後の事になる。事に依ると藤原不比等はローマ帝国の歴史書も知っていた可能性もある。「真実の歴史」と「歴史書」に想いを致す時、「歴史書」を読むにしても大層な労力が要ることを実感させられた。塩野七生女史の「ローマ人の物語・全15巻」は、15年を費やして毎年発刊を続けてこられたものであり、日本人の教養として、これからの世代にも受験勉強ではなくて読んで貰いたいと思った。但し、単純思考では駄目で有り、地球が狭くなった現代に照らし合わせて考える必要は当然ある。日本人は兎角、中華帝国とローマ帝国の違いについて、洋の東西を問わずとかの論法で、理解し説明することが多い。朝日新聞(平成23年12月23日)の「ザ・コラム グローバル時代の国・ステレオタイプのわな(フランスとドイツ)」には、「国のステレオタイプで何かを説明したつもりでいても、多くの場合、理解はゆがむ。とりわけグローバル時代には。」と大野博人編集委員が書いている。

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塩野七生女史の「ローマ人の物語・全15巻」の最終巻「ローマ世界の終焉」のラストの結語は次の通りである。

--------ローマ世界は地中海が内海(マーレ・インテルヌム)ではなくなったときに消滅したのである。地中海が繋ぐ道ではなく、隔てる境界に変わったときに、消え失せてしまったのである。その後の地中海は、サラセンの海賊の来襲を知らせて人々を山に逃がす役割を果たしていた「トッレ・サラチェーノ(サラセンの塔)」が、崖の上となれば必ず立っていた海であり、十字軍の兵士たちを乗せた船が東に向かうことになる海になるのである。だがそれも、紀元一千年を過ぎる頃になると、アマルフィ・ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアという、東方のイスラム世界との交易に向うイタリア海洋都市国家の船が行き交う海になっていく。そしてその後ならば、古代復興と人間の復権を旗印にかかげた、ルネサンス時代の海にもなって行くのである。

---------盛者は必衰だが、「諸行(res gestae)」も無常であるからだろう。これが歴史の理(ことわり)ならば、後世の我々も、襟(えり)を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力の積み重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうかと思っている。--------

2011年12月29日 (木)

不比等・多弦楽器と三味線

日本は大陸から渡来してきた文化を吸収する際に、簡素化することが得意である。舞踏にしても、能楽のように、古代の16人舞をたった一人にしたり、寺院の堂宇配置にしても、中金堂・東西金堂という三金堂形式を中金堂の本堂だけにしたり、十三重塔を五重塔としたり、13の母音を持つ中国語を日本語の5つの母音に短絡させたりしてきた。

藤原不比等は三味線など知らなかったことだろう。正倉院御物を見てもシルクロードを経て渡来した楽器は多弦の琵琶である。江戸時代となり時代が下がると、琵琶は廃(すた)れて、弦の少ない三味線とお琴のように爪弾(つまびく)楽器のオンパレードになる。二胡などバイオリンのように弓で弾く弦楽器も日本には定着していない。余り芳(かんば)しくはないけれど、「三味線を弾く」と云う言葉があるように、三味線は庶民レベルの娯楽にはなったようだ。

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TV番組で、ウクライナ出身の女性歌手「ナターシャ・グジー(Nataliya Gudziy、1980~)」の弾き語る多弦楽器・バンドゥーラの音色と、「千と千尋の神隠し」の主題歌を流暢な日本語で歌うその透通った歌声に魅了されながら考えた。シンプルイズベストと単純に言って良いものと、その複雑さには、矢張り意味のあるものが有るのであるから、複雑さを無視し全て簡素化し一部分だけ独立させるのは行き過ぎの面もある。一頃揶揄されたエコノミックアニマルもその例であろう。「一芸は道に通ずる」などと思い上がり易い倭人の性格をよく知っていた藤原不比等なら、この点を一番心配していたことだろう。

2011年12月28日 (水)

不比等・掌と魚心

藤原不比等の場合、律令制度を完成させるに及び、西遊記のお釈迦さまと孫悟空のように、役人たちを掌上に運(めぐ)らせるだけではなくて、更には、水心(みずごころ)も勿論、持ち合わせていたことだろう。梅原猛氏は藤原不比等を陰謀家と云うが、時の朝廷の安定度を見れば、掌中の魚に心あれば、とても好意的に接したのであろう。人は制度だけでは動かないとも良く知っていただろうから。辞書解説は次の通り。

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1)魚心(うおごころ):「魚、心あれば」が誤って一語になったもの。相手に対する好意。魚に水を思う心があれば水もその気持ちをくみとるであろう、の意。相手が自分に好意を示せば、こちらも好意をもって応対する用意がある。

2)掌:てのひら。たなごころ。

2011年12月27日 (火)

北円堂に至る坂(その153)

近鉄奈良駅に着いて、エスカレーターに乗り地上に上ると、行基菩薩の噴水広場に出る。大通り(登大路・のぼりおおじ)を真っ直ぐに進むと、県庁前を経て、大仏殿に向かう。また、右手の東向(ひがしむき)商店街を南に抜けると三条通りに出て、猿沢池に至ると大きな案内板には書かれている。東向商店街の途中、「北円堂に至る坂道」が、ちらっと見えるけれど、坂がきつく見えるのでお年寄りは敬遠される方もあるのではと、興福寺の入り口は、猿沢池から、五十二段であるとか、南円堂の参道の石段を上るように、観光ガイドブックには書かれている。しかし、近鉄奈良駅から一番近い世界遺産・興福寺五重塔への近道は、意外と知られていなくて、「北円堂に至る坂道」が、正解である。「北円堂に至る坂」は、観光ボランティアガイドさんの専売特許のような具合である。坂を上り切ると、左手に興福寺を創建した藤原不比等が祀られている北円堂があり、春秋の2回の特別開扉以外は閉められており静寂そのものである。但し、興福寺中金堂再建のための覆屋が巨大なため、興福寺境内が手狭に感じられるほどになり、北円堂も発掘調査のため木々が切られて、裸同然となっており、不比等が風邪を引きはしないかと、思われるほどではある。

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リニア新幹線が名古屋から大阪に延伸される際は、中間駅として奈良駅が予定されているそうだが、古都奈良・奈良公園の入り口に位置する興福寺の整備の完成は、それ位先の30数年後になりそうである。(大極殿の仕事を終えた宮大工さんがスタンバイしているけれども、興福寺中金堂再建の費用60億円は、税金ではなくて、庶民の寄付を集めなければ進まないからである。)

2011年12月26日 (月)

平城京の地名・恋の窪

奈良は古代の都であっただけに、地名には不思議なものが多い。平城京の東・外京(げきょう)から佐保川(さほがわ)が西流し、平城宮跡(平城宮址)の手前で直角に曲がり南流する。さらに南下して大安寺の西方(左京・五条)を流れる佐保川の東岸辺りに、「恋の窪(こいのくぼ)」と云う地名がある。「恋」は「国府(こう)」・「鯉(こい)」・「肥(こえ)」などの転訛であり、「窪」は低地に川水が土を運んできた洲(す)のような処を意味すると考えられ、平城京の人々の蔬菜(そさい)の生産地であったのかも知れない。「月刊・大和路ならら(2003年11月号・地域情報ネットワーク発行・P39)」の、「地名発掘シリーズ第60回・恋の窪の地名(地名学者・池田末則氏)」には、次のように書かれている。

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地名用字の「河」は「恋」に変わる例がある。奈良市内には「恋の窪(こいのくぼ、旧大字大安寺小字)」があり、大安寺西北方、三条添川町に隣接している。「コイノクボ」の「コイ」は「川(こ)」のことで、「クボ」は凹地(クボチ・久保地)の意、いわゆる「川辺(佐保川)」にちなむ地名であろう。

カ→コ音の転訛(てんか)は、母音A→Oに交替したもので、すべての地名は、容易な発音に転訛し、佳字に転ずる例が少なくない。「恋の窪」によく似た、「恋中」、「恋の口」、「恋の本」、「恋田」などの地名が、同じく奈良県内にある。これらは「河口」、「河本」、「河田」などの地名であったのではなかろうか。いずれにしても、地名用字は転訛・改字し、二字化・好字化するとのこと。

2011年12月25日 (日)

平城宮址(その60)

冬日を浴びた平城宮址(へいじょうきゅうし・平城宮跡)の大極殿(だいごくでん)は、復原の良し悪しに関わらず、近鉄電車の車窓をカンバスにして、今日も甍(いらか)を輝かせている。

世界遺産として認められるには、原っぱだけでは都合が宜しくなかったのだろう。

古代の国会議事堂の再建に160億円掛けることは、バブル崩壊後の今、予算計上は無理な相談であったろう。何(いず)れにしても、観光立県を目指す奈良にとっては、大極殿がこれから長く集客を担ってくれることだろう。

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秋の深まった頃(平成23年11月20日)に、平城宮跡で行われた第35回全国育樹祭に出席のため、皇太子が奈良に来られ、昭和天皇お手植えのイチイガシに施肥をなさるなど、イベント会場のシンボルとしても、大極殿はその存在感を増してきている。

2011年12月24日 (土)

大和郡山市・古事記1300年紀事業

大和郡山市では、売太神社(めたじんじゃ)に稗田阿礼(ひえだのあれ)が祀られており、来年(2012)には、古事記・編纂1300年を迎えるため、古事記1300年紀事業が行われる。歴史ファンに興味のある講演(第16回 こおりやま歴史フォーラム ~古事記を読む~)は次の通りです。

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)日時:平成24年2月4()午後1時~午後4時20分
2)場所:やまと郡山城ホール 小ホール

3)内容:

 ①講演1  千田 稔 (奈良県立図書情報館館長) 「古事記に自然を読む」

 ②講演2  辰巳 和弘 (元同志社大学教授) 「坂に立つ神と人 -古代人の宇宙観-」

 ③一人語り芝居: やすき ひろこ (大和語りべ)「古事記より 阿礼の背中」

4)問合せ先:大和郡山市・生涯学習課(℡0743-53-1151)

2011年12月23日 (金)

奈良県立美術館・特別企画展「やまとの地宝-遺物が語る奈良の歴史」

奈良県立美術館では、中国陜西歴史博物館にて開催された「日本考古展」の帰国記念として、平成24年2月4日から3月20日まで、特別企画展「やまとの地宝(ちほう)-遺物が語る奈良の歴史」が、中国におけると同様に開催されるとのこと。陝西省(せんせいしょう)は中華人民共和国の行政区画の一つで、古代中国の長安一帯を含む地域である。紹介文は次の通りです。

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1938年の創立以来70年余りにわたり、大和の地の発掘調査と考古学研究を行ってきた橿原考古学研究所。最新の調査成果を中心に重要文化財を含む考古資料の一級品を県都・奈良で一堂に紹介します。

2011年12月22日 (木)

橿原考古学研究所附属博物館・十二支の考古学-辰(たつ)

奈良県立・橿原考古学研究所附属博物館では、平成24年の干支・辰(たつ)をテーマとした特別展・「十二支の考古学-辰(たつ)」を、平成23年12月10日より平成24年1月15日まで開催中です。休館日は、月曜日(但し、1月9日の成人の日は開館し、翌日の1月10日を休館する)と年末年始(12月26日~1月4日)です。「十二支のたつ・龍の出現と到来・龍文様の展開・四神の龍・文字で記された龍」の五部構成で、展示紹介するとのことである。主な展示品は次の通りです。

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1)龍紋象嵌大刀(新沢327号墳)

2)十二支像・辰像拓本(韓国・金庚信墓)

3)十二支像・辰像拓本(韓国・伝真徳王陵)

4)方格規矩鏡(大和天神山古墳)

5)金銅装単龍環頭大刀柄頭(一須賀WA1号墳)