扶余の木簡出土(その2)
古代朝鮮・百済の都・扶余の発掘調査による出土木簡に、日本人名「那尓波連公(なにわのむらじきみ)」と記されていたと、平成21年7月7日、新聞報道された。韓国・国立扶余博物館が昨年、収蔵する木簡を整理。その際、「連」が身分を示す日本古代の姓(かばね)であることに学芸員の李鎔賢(イ・ヨンヒョン)さんが気づき、日韓の専門家が解読したとのこと。木簡の解読には高度な知識と時間が必要となるが、これからも、成果発表が期待される。
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古代朝鮮・百済の都・扶余の発掘調査による出土木簡に、日本人名「那尓波連公(なにわのむらじきみ)」と記されていたと、平成21年7月7日、新聞報道された。韓国・国立扶余博物館が昨年、収蔵する木簡を整理。その際、「連」が身分を示す日本古代の姓(かばね)であることに学芸員の李鎔賢(イ・ヨンヒョン)さんが気づき、日韓の専門家が解読したとのこと。木簡の解読には高度な知識と時間が必要となるが、これからも、成果発表が期待される。
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儒教は成立年代が古いこともあり、漢帝国の儒教国教化以降も、仏教や道教に較べて、哲理面で後れを取っていた。朱子学と陽明学は、儒教が理論武装をして儒学に変身したものと云える。藤原不比等の認識していた儒教は、単に「天地に愧じず、先祖供養を怠らない」程度であったのかも知れない。辞書解説は次の通り。
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1)朱子学:中国・南宋の朱熹(1130~1200)が、禅学の影響に対抗しつつ、儒教経典に形而上学的解釈を加えて大成した新しい儒学。理気説を基本に、人の本性は理であり善であるが、気質の清濁により聖と凡の別があるとし、敬を忘れず行を慎んで外界の事物の理を窮めて知を磨き、人格・学問を完成する実践道徳を唱えた。日本には鎌倉時代に伝えられ、江戸幕府から官学として保護された。
2)陽明学:中国・明の王陽明(1472~1528)が唱えた儒学説。形骸化した朱子学の批判から出発し、主知主義的理想主義的傾向に対して現実主義的批判を加え、時代に適応した主体的実践倫理を説いた。心即理(しんそくり)・知行合一(ちこうごういつ)・致良知(ちりょうち)、 欲望を肯定する無善無悪などを主要な学説・思想とする。日本では、江戸時代に中江藤樹によって初めて講説された。吉田松陰も傾倒したと伝えられる。
「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず。」とは、「仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざるは、二の楽しみなり。」などと、天の道、地の道を学び、政道の正しからざるを憂えたり、政道を正さねばと思い詰める場面が、歴史上度々、現れる様に思われる。藤原不比等も幾度かその思いを抱いたことだろう。
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天の道を究めると、叫んだところで、
与謝野晶子の「みだれ髪」所収の短歌「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」には、勝ち目のないことでしょうけれど。
五倫(ごりん)、三綱五倫・三綱五常、五教は、儒教の尚古主義を表す言葉として、良く知られている。辞書解説は次の通り。
1)三綱:儒教で、人間として守るべき、君臣・父子・夫婦の秩序。
2)五倫:儒教で、人の守るべき五つの道。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友(ほうゆう)の信。五常。五教。君臣、父子、長幼(兄弟)、夫婦、朋友の間のモラルを云う。
3)五教:儒教でいう、人の守るべき五つの教え。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友(ほうゆう)の信の五つとする説(孟子)と、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の五つとする説(春秋左氏伝)とがある。五倫。五典。五常。
4)尚古主義:古い時代の文物・思想・制度などを尊び、これを模範としてならおうとする考え方。
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藤原不比等なら、五倫を逸脱した不倫にも溺れることなく、寧ろ利用するかのように、颯爽と世を渡ったのであろう。不倫の辞書解説は次の通り。
5)不倫:道徳に反すること。特に、男女の関係が人の道にはずれること。また、そのさま。
「子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。(論語・里仁篇)」や、易経の「形而上なるものが道、形而下なるものが器。」「君子は器ならず。(論語・為政篇)」から分かる通り、中国の儒教においては、現実の物象を「器(うつわ)」と云い役立つが末であり、根源にあるものを「道(みち)」と云い、本体であり最も重要と考えた。道先器後論による、儒教社会の技術軽視の風潮は日本には伝わらず、寧ろ「器量人」、「器量好し」、「器用」など、良い意味に混同されて使われている。
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藤原不比等の時代には、儒教の解釈も厳密性はなく、形而下の器を大切にする本末転倒型として受容していたのかも知れない。以後の日本社会では、職人が褒めそやされたりする訳である。
「古都奈良の西大寺・旧境内より、イスラム陶器破片が出土した。」と、奈良市・埋蔵文化財調査センターが、平成21年7月3日、発表した。報道内容は次の通り。「神護景雲2年(768)と記された木簡も発見された。イスラム陶器はイスラム帝国・アッバース朝(750~1258)にて香料などの容器として製造され海上交易に使われたと考えられ、海のシルクロードの東西交易における重要性を認識させるに十分な発見例と云える。」
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出土陶器は7月6~31日に奈良市・埋蔵文化財調査センター、8月10~31日に奈良市役所で公開される。
宝永2年(1705)、近松門左衛門(53歳)の人形浄瑠璃作品・「用明天皇職人鑑(ようめいてんのう・しょくにんかがみ)」が竹本座にて初演されている。「用明天皇職人鑑」は、近松門左衛門の幻の名作とされていたが、近年、三味線の譜面が国立文楽劇場の書庫から発見されて、上演が出来るようになったと、NHK総合・ニュースウオッチ9にて報道された。
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近松門左衛門の作品の対象とする時代は、江戸時代に限らず、古代にまで遡る訳であり、記紀編纂に関わった藤原不比等が知るとすれば、近松の旺盛な文筆活動に驚きを隠せないことであろう。
古都奈良・奈良公園の興福寺・南大門は、享保2年(1717)の焼失以降、再建されなかった。興福寺南大門の往時の規模・構造を探るため、奈良文化財研究所に託して、南大門跡の発掘調査を、平成21年10月30日まで行うと、興福寺が6月17日発表した。7月2日、愈々、南大門跡2009発掘調査が始まろうとしており、南大門跡の基壇周りの桜の古木などを伐採し、防護フェンスで囲い、準備が進められている。
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鹿の日中の休憩所の観のある南大門跡を、4ヶ月間、クローズし、本格的に調査をしても、中金堂跡と同様の鎮壇具が発見されるとは限らない。
平成21年7月7日(火)、2009七夕(たなばた)を迎える、古都奈良・興福寺では2009弁才天供(べんざいてんく)に合わせて、興福寺三重塔の特別開扉(午前9時~午後4時)が行われる。興福寺南円堂の裏手にある三重塔は、年一度の賑わいを見せる。
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日本では、神仏習合は知られているけれど、道教との道仏混交(道仏習合)を知る人は少ない。しかし、古都奈良・興福寺の弁才天供が七夕に行われる事実を見るとき、道仏混交(道仏習合)に疑いを挟む余地はない。極論すれば、神道は道教そのものであり、神仏習合も道仏混交(道仏習合)も違いはないのだが。藤原不比等ならば、このようなことは一笑に付したことだろう。
三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん)とは、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗と後周の世宗により、行われた中国における仏教弾圧を云う。中国における仏教の国教化は、歴史の早い時点で、儒教と道教にその席を譲ってしまう。藤原不比等なら北魏や北周の廃仏を知り得ていただろうから、三教の一つに傾倒する愚を犯すことは無かっただろう。
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1)北魏の廃仏(446~452):太武帝は仏教を退けて道教を受容した。
2)北周の廃仏(574~578):徹底弾圧を受けた仏教は、末法思想を発信した。
3)唐の廃仏(845~846):武宗は道教を信じ、仏教は国家統制した。
4)後周の廃仏(955~959):仏教の国家統制を継続した。
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