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2016年9月 1日 (木)

北円堂に至る坂(不開坂と不改常典(ふかいのじょうてん))

藤原不比等の祀(まつ)られている古都奈良・興福寺「北円堂」に至る坂のうち東向き商店街の中程から興福寺に向かう坂は、不開坂(あけずのさか)と呼ばれており、昔は門が閉められていたとのこと。「不開」と「不改」は音読すれば同じであり、藤原不比等が大切にしていた「不改常典(ふかいのじょうてん)」が、北円堂に収められていたのかも知れません。後世、そうとは知らず、いつの間にか、「不改」の「改」が「開」に変わり、開かずの門に閉ざされた坂という意味で、「不開坂(あけずのさか)」と、藤原不比等には好都合に、元の意味は分からなくなってしまったのだろう。

「不改常典(ふかいのじょうてん)」:続日本紀(巻第四・慶雲四年七月盡和銅二年十二月)の元明天皇・即位の宣命には次の記載がある。「是者(こは)かけまくも威(かしこ)き近江大津宮御宇(あめのしたしろしめしし)大倭根子天皇(おおやまとねこすめらみこと)の与天地共長(あめつちとともにながく)与日月共(つきひとともに)遠不改常典(とほくかはるまじきつねののり)と立賜(たてたま)い敷賜(しきたま)はる法かな」(不改常典の初出であり、天智天皇が定めた皇位継承のルールが書き示されていたと考えられている。)

2016年3月 6日 (日)

不比等・利休七則と「おもてなし」

藤原不比等の時代にも日本は物事に裏・表のある国だったのだろうが、日本文化の華である茶道のフルコースが料理・酒に及ぶことを説明しないのでは、真の「おもてなし」とは云えず不親切だと、デービッド・アトキンソン(David Atkinson)氏は著書「イギリス人アナリスト日本の国宝を守る(講談社α新書2014刊)」の中で述べている。

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観光立国による日本経済復興を目指すのであれば、本当の「おもてなし」は利休七則に学ぶべきとも論じている。

(1)茶は服のよきように点て

(2)炭は湯の沸くように置き

(3)夏は涼しく冬暖かに

(4)花は野にあるように

(5)刻限は早めに

(6)降らずとも雨の用意

(7)相客に心せよ

2016年2月19日 (金)

不比等・三笠宮崇仁親王の歴史観

記紀を編んだ藤原不比等ならば、きっと不比等・自身の記紀に込めた企図を解する歴史 学者として、「三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)親王(1915.12.2生れ)」の慧眼(けいがん) に感心したことだろう。三笠宮崇仁著「文明のあけぼの・古代オリエントの世界(2002 .6集英社発行)、P272第13章バビロニア捕囚より抜粋」には、次のように記され ている。

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「・・・今日(こんにち)からは、こんなあやふやなことしかいえないモーセという人 物が、どうして旧約聖書ではあんなにも重要な人物としてクローズ・アップされたので あろうか。これは日本書紀における神武天皇にたいへんよく似ているケースだと思える 。史料というものは、そこに書かれてある時代よりも書かれた時代そのものを反映して いるのである。モーセの伝説も、バビロニア時代の人々がモーセをどう考えていたか、 ということを解くカギとして考えた方がよさそうである。ちょうど神武天皇の伝説が、 日本書紀の書かれた八世紀初めの日本人の考え方を解くカギであるのと同じように。」

2016年1月27日 (水)

不比等・神の人モーセの祈り(詩篇第九十篇)

藤原不比等(659~720)が聖書を知っていたであろうと考える時、不比等のような偉業をなした人であればこそ、最期の気分はカントと同様であったろうとの想いを抱いた。旅立った61歳と80歳の違い、人間味の相違はきっとあるけれど。

「哲学者・カント(1724~1804)の遺文中には、旧約聖書・詩篇第九十篇の「神の人モーセの祈り」の文言「われらが年(とし)を経(ふ)る日は、七十歳(ななそじ)に過ぎず、あるいは壮(すこや)かにして八十歳(やそじ)にいたらん、されどその誇(ほこ)るところは、ただ労苦(ろうく)と悲しみとのみ。」がある。

2016年1月 7日 (木)

不比等・「初春やあべのハルカス見晴るかす日下の景色今も昔も」

初春のハルカス・見晴るかす(見霽かす・みはるかす)ハルカス・阿倍野(あべの)ハルカス。近鉄奈良線の枚岡(ひらおか)・石切(いしきり)駅間を走る快速電車の車窓より大阪平野のパノラマを眺めていると、不図(ふと)、一首浮かんだ。「初春やあべのハルカス見晴るかす日下の景色今も昔も」。

藤原不比等が苦心して編(あ)んだ記紀の一つ、古事記・神武東征神話の中で即位前の神武天皇が長髄彦(ながすねひこ)・登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)に撃退させられた処がこの生駒山の西側に当たる日下(くさか)である。

不比等は、この地の枚岡神社が奈良・春日大社の元春日と称され、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売御神(ひめみかみ)を祀っていた理由が、大和制圧の証(あかし)として勝者の神を勧請していることにあると知っていたに違いない。そして、天児屋根命が藤原氏のルーツであり、藤原不比等の祖先神で有ると云うことも。また、比売御神は天照大神(あまてらすおおみかみ)であることは自明とも云えると。

2015年12月17日 (木)

不比等・「原節子(はらせつこ)号泣(ごうきゅう)す」

藤原不比等の仕えた持統天皇や元明・元正の女帝が治めた日本国の権力史を映像としてドラマ化するためには、目鼻立ちの大きくてくっきりとした西洋風の風貌を持つ恰好(かっこう)の俳優として、20世紀最高の女優・原節子(はらせつこ)が思い浮かぶ。しかし、原節子(1920年6月17日生れ)は2015年9月5日を限りにこの世を旅立ってしまった。

奇(く)しくも、集英社新書(2014.6.22発行)より「原節子、号泣す」が発刊されている。著者の末延芳晴(すえのぶよしはる)は、小津安二郎監督の紀子三部作「晩春(S24)」「麦秋(S26)」「東京物語(S28)」のヒロイン・紀子を演ずる原節子を不世出の女優として絶賛している。

原節子の号泣する姿は、2013年、全世界の映画監督の選ぶ20世紀で最高の映画として小津安二郎監督の「東京物語」を挙げており、日本文化の枠を超えて、今も世界を魅了していることを思い知らされた人も多いことだろう。

2013年3月 6日 (水)

補遺・饒速日命(ニギハヤヒ)と先代旧事本紀

国譲り神話の真骨頂と考えられている物部王朝・邪馬台国(やまたいこく)説は、奈良県と大阪府河内郡との府県境に南北に連なる生駒山(いこまやま)と、その東に同じく南北に連なる矢田丘陵(やたきゅうりょう)を舞台として展開され、近鉄奈良線の富雄(とみお)駅と直交して南流する富雄川(登美の小川・とみのおがわ)流域の地にその伝承の数々が鏤(ちりば)められている。

墳丘径86mの富雄・丸山古墳(奈良市大和田町丸山)は、円墳としては国内最大級で有り、卑弥呼の陵説もあり、北辺の帝塚山住宅の名称の元となっている。饒速日命(ニギハヤヒ)が天磐船(あまのいわふね)から宮処を決める為に放った三本の矢が落ちた所は、大和郡山市・矢田町であり、二之矢の落ちた所に矢田坐久志玉比古神社(やたにいます・くしたまひこじんじゃ・矢落神社)があり、櫛玉・饒速日命が祀られている。一之矢塚と三之矢塚は、それぞれ500m離れて南南東と北北西の位置にあり、小字名は三之矢塚が宮処、一之矢塚は一之矢とのこと。また、三之矢塚には「邪馬台国・大和郡山説」の碑が建てられている。饒速日命(ニギハヤヒ)が最初に天降った所は、「哮(いかるが)の峰(生駒山)」であり、法隆寺の所在する矢田丘陵の南端辺りの「斑鳩(いかるが)町」とも符合する。

辞書解説は次の通り。

1)饒速日命・邇芸速日命(にぎはやひのみこと)

日本神話で、天孫降臨に先立ち、天磐船(あまのいわふね)に乗り天下ったという神。物部氏の祖神と伝える。天孫降臨とは別に、大和国に降った神。長髄彦(ながすねひこ)の妹を妻とする。のち神武東征のとき、抵抗した長髄彦を討つ。

2)先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)

史書・10巻。蘇我馬子らの序文があるが、平安時代の大同年間(806~810)以後、承平6年(936)以前の成立とされる。神代から推古天皇までの歴史を述べたもの。記紀からの引用が多いが、巻五「天孫本紀」、巻十「国造本紀」は他書に見られない所伝を載せ、貴重な史料。旧事紀(くじき)。旧事本紀(くじほんぎ)。

2011年12月31日 (土)

不比等・閑話(その162)

藤原不比等(ふじわらふひと・ふじわらのふひと)、について想いを巡らし、ブログのタイトルを不比等(fuhito)とし、不比等の生きた時代を中心として、古都奈良の観光振興に資すべく、続けてきたこのブログも、一旦、お開きとすることに致しました。shinebarbarbarshine

元々、歴史が好きではありましたが、時代が下った戦国時代とかが、興味の大半でした。あるとき、塩野七生(しおのななみ)女史の「ローマ人の物語」を読み始めて、ローマ帝国の壮大な歴史に触れ、初めてジュリアス・シーザーの天才である所以(ゆえん)を知りました。翻(ひるがえ)って、日本では、それに匹敵する人物がいるのだろうかと、考えを廻(めぐ)らしたところ、梅原猛氏の著書「隠された十字架」に登場した謎の人物「藤原不比等」ならば、日本のジュリアス・シーザーといっても過言ではないのではないかと、藤原不比等の歴史的周辺を、もっと知りたいと思うようになった。残念ながら、藤原不比等はジュリアス・シーザーのように、自身の著作を残しては居ないものの、記紀(古事記・日本書紀)の編纂に深く関与していたことから、その記紀の描き出す古代世界の中に、彼・藤原不比等の人物を准(なぞら)えられはしまいかと、同様に、藤原不比等を調べてきた人々の著書などを読み合わせてきました。けれども、藤原不比等が天才である所以なのか、日本史の中で彼の尻尾(しっぽ)を捉(つか)まえることは、並大抵のことではないと思い知りました。これは、藤原不比等を調べて来られたよそ様も、悉(ことごと)く、同じ想いをされてきたものと、感じ入る次第です。

一番の問題は、余り深く突っ込むと、日本国の国体護持の建国精神に触れることとなり、これまで、歴史学者がこの時代を、敬遠してきたことも一因ではあるのでしょうが。もし、藤原不比等を歴史の中に正確に位置付けるとすれば、これまでの日本の歴史上の人物は全て霞んで仕舞うほどの、迫力があったに違いないと思われる。1300年後の今に至る国の統治機構である官僚組織を、盤石に整備したのであるから、それを天皇制で権威付けたことは、未だに微塵も揺らいでいないのだから。shinebarbarbarshine

藤原不比等は、奈良公園の入り口、興福寺の北円堂に祀られて、今も静かに眠っている。

奈良市・鴻ノ池運動公園の一角に建つ藤原不比等・顕彰碑が唯一、鴻ノ池運動公園を造成した際に、藤原不比等の陵の名残でさえ破壊したらしいことを、認めているかの気がする。まあ、藤原不比等にしても、平城遷都の際、多くの古墳を破壊しているのだから、十分に納得していることであろうけれど。

2011年12月30日 (金)

不比等・ローマ人の物語を完読した感想

藤原不比等(659~720)の生きた時代は、東ローマ帝国が最後の輝きを示して、イタリア半島をゴート族から奪還した西暦553年より、百年あまり後の事になる。事に依ると藤原不比等はローマ帝国の歴史書も知っていた可能性もある。「真実の歴史」と「歴史書」に想いを致す時、「歴史書」を読むにしても大層な労力が要ることを実感させられた。塩野七生女史の「ローマ人の物語・全15巻」は、15年を費やして毎年発刊を続けてこられたものであり、日本人の教養として、これからの世代にも受験勉強ではなくて読んで貰いたいと思った。但し、単純思考では駄目で有り、地球が狭くなった現代に照らし合わせて考える必要は当然ある。日本人は兎角、中華帝国とローマ帝国の違いについて、洋の東西を問わずとかの論法で、理解し説明することが多い。朝日新聞(平成23年12月23日)の「ザ・コラム グローバル時代の国・ステレオタイプのわな(フランスとドイツ)」には、「国のステレオタイプで何かを説明したつもりでいても、多くの場合、理解はゆがむ。とりわけグローバル時代には。」と大野博人編集委員が書いている。

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塩野七生女史の「ローマ人の物語・全15巻」の最終巻「ローマ世界の終焉」のラストの結語は次の通りである。

--------ローマ世界は地中海が内海(マーレ・インテルヌム)ではなくなったときに消滅したのである。地中海が繋ぐ道ではなく、隔てる境界に変わったときに、消え失せてしまったのである。その後の地中海は、サラセンの海賊の来襲を知らせて人々を山に逃がす役割を果たしていた「トッレ・サラチェーノ(サラセンの塔)」が、崖の上となれば必ず立っていた海であり、十字軍の兵士たちを乗せた船が東に向かうことになる海になるのである。だがそれも、紀元一千年を過ぎる頃になると、アマルフィ・ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアという、東方のイスラム世界との交易に向うイタリア海洋都市国家の船が行き交う海になっていく。そしてその後ならば、古代復興と人間の復権を旗印にかかげた、ルネサンス時代の海にもなって行くのである。

---------盛者は必衰だが、「諸行(res gestae)」も無常であるからだろう。これが歴史の理(ことわり)ならば、後世の我々も、襟(えり)を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力の積み重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうかと思っている。--------

2011年12月29日 (木)

不比等・多弦楽器と三味線

日本は大陸から渡来してきた文化を吸収する際に、簡素化することが得意である。舞踏にしても、能楽のように、古代の16人舞をたった一人にしたり、寺院の堂宇配置にしても、中金堂・東西金堂という三金堂形式を中金堂の本堂だけにしたり、十三重塔を五重塔としたり、13の母音を持つ中国語を日本語の5つの母音に短絡させたりしてきた。

藤原不比等は三味線など知らなかったことだろう。正倉院御物を見てもシルクロードを経て渡来した楽器は多弦の琵琶である。江戸時代となり時代が下がると、琵琶は廃(すた)れて、弦の少ない三味線とお琴のように爪弾(つまびく)楽器のオンパレードになる。二胡などバイオリンのように弓で弾く弦楽器も日本には定着していない。余り芳(かんば)しくはないけれど、「三味線を弾く」と云う言葉があるように、三味線は庶民レベルの娯楽にはなったようだ。

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TV番組で、ウクライナ出身の女性歌手「ナターシャ・グジー(Nataliya Gudziy、1980~)」の弾き語る多弦楽器・バンドゥーラの音色と、「千と千尋の神隠し」の主題歌を流暢な日本語で歌うその透通った歌声に魅了されながら考えた。シンプルイズベストと単純に言って良いものと、その複雑さには、矢張り意味のあるものが有るのであるから、複雑さを無視し全て簡素化し一部分だけ独立させるのは行き過ぎの面もある。一頃揶揄されたエコノミックアニマルもその例であろう。「一芸は道に通ずる」などと思い上がり易い倭人の性格をよく知っていた藤原不比等なら、この点を一番心配していたことだろう。